一文無し留学生が成し遂げた’ジャパンドリーム’張永軾永山会長
一文無し留学生が成し遂げた’ジャパンドリーム’張永軾永山会長
日本で開花した事業の素質…免税店1位の土台になりました。
船乗りで稼いだ金300万ウオン握り日本行き、流通業に魅力を感じ勉学辞め事業始める
日本最大の電気街 秋葉原で免税店
日本に来た外国人に人気の観光コース秋葉原
電車に乗りJR秋葉原駅電気街口で下り正面に見れば英語、ハングル、漢字、ロシア語などで’永山免税店(Eisan Duty Free)’と書かれた大きな看板が目に入る。4階建ての店舗に入れば、スタッフ達が英語、日本語、中国語で応対する。しかし、実はこの店のオーナーは韓国人である。
まさに東京、大阪、別府、など日本の主要都市7ヵ所に’永山免税店’を運営中である張永軾永山会長(40)がその主人公、張会長は免税店事業、家電製品流通業、貿易業、注文者商標付着生産(OEM)事業を展開している。
特に免税店業界ではLAOX、石丸など日本企業を抑え売り上げ1位である。
永山の全社社員数は230名、最近は韓国から本年2月大卒予定者15名を採用した。本年3月末決算では140億円の売上額を計上するものと推算される。上海とソウルに海外支社を開設した。従業員の国籍は千差万別である。韓国人は90名と最も多く、中国人50名、日本人40名でありその他にもインド、フランス、ブラジル、ウクライナ出身がいる。従業員の半分近くが3ヵ国語を駆使し、その内40名は4つ以上の言語で意思疎通が可能である。
韓国で張会長の人生は順調ではなかった。地方大である順天大機械設計工学科をを卒業した彼を受け入れる職場は無かった。小さな建設業者下請け事業を始めたが発注主が倒産した影響を受け会社を閉めねばならなかった。
職を求めるためにソウルに上った時、道端の電柱に貼ってあった求人広告(遠近海 漁船 船員求む)がまず目に止まった。仁川近海で3ヵ月間漁船に乗りながら留学しなければと心に決めた。
1993年たった300万ウオンを握りしめ日本に渡った。’ひらかな’もろくに読めないまま玄界灘を渡ったくらいなのでまず日本語学校に登録した。寝起きする部屋を借り新しい運動靴を買うと金は底をついた。
日本で歌手趙容弼の歌が流行するや南大門市場、東大門市場で歌謡テープを安く仕入れて、これを日本に持って行き売った。このようにして1年が少し過ぎた頃、300万円が手の中に残った。
こんな経験を通し自身に事業の素質があることを発見した。彼はためらうことなく進路を’勉学’から’事業’に替えた。ただ、パチンコや韓国料理店など既存の在日僑胞の多くが従事している業種でない他の道を求めた。偶然に通りかかった秋葉原で家電製品流通業に魅力を感じ、関連事業を始める決意をした。
最初はTVや冷蔵庫を1台2台と家電卸売り商で格安で仕入れた後、これを小売店にマージンを乗せて流した。運送手段が無かった時で野宿者のリヤカーを一日2000円で借りて製品を積み運んだ。その後、35万円出してワゴン車を買い、さらに金を借りて2tトラックを買った。
こんなやり方で2年間秋葉原で仕事をしながら人脈を広げていった。いつも間にか秋葉原では’ジーパンにバスケットシューズを履いた韓国の青年’というニックネームで呼ばれるようになり、彼を手助けしてやろうという者も現れた。ある日本人事業家が連帯保証してくれて三菱UFJ銀行から300万円の融資を受けて1995年株式会社の設立資金に使った。張会長は事業を拡げるには人材を補強しなければならないと考え秋葉原のある大型店舗の営業部長として在籍中であった日本人を説得の末、スカウトした。その営業部長が今年62歳の佐々木社交である。その後、事業規模を日本国内はもちろん国際的に広げて行った。日本国内のホテルや政府機関にTVなど電気製品の納品、中国に電気製品の輸出も始めた。
海外から輸入したブランド品の時計、化粧品、ファッション雑貨などを免税店に陳列して売った。それまで、日本で爪切りを最もたくさん売る店舗はDIY用品で有名な東急ハンズであったが、最近は永山が日本一の位置を占めている。売上額も伸び始めた。98年23億円から2000年32億円、2002年61億円、2004年78億円、2005年98億円に上った。2006年3月決算では100億円を突破し、2007年3月末には111億円を達成した。記者は”90年代一文無しで日本に留学に来た人達(いわゆる’ニューカマー’)は多いが何故あなたのように事業を起こせないのか質問した。”市場の流れや消費者のニーズを正確に読み切りスピード経営をしたためであり免税店というニッチマーケットを攻略したのが当たった。”という答えが返って来た。
果たしてそれだけで成功するものなのか?記者は永山本社事務所に掛かっている会社のモットーを見て’あ、これだ’と膝を打った。事務所の壁には毛筆で’やる、すぐやる、できるまでやる’と書かれていた。ハングリー精神とチャレンジ精神、執念が今日の永山を築いたという思いがした。
張会長は日本で事業をしながら困難や悔しさを受けるたびに唇を噛みしめたという。”私は韓国では失敗した3流人生だった。しかし、日本で繰り広げた’敗者復活戦’では必ず勝って見せると。
永山は日本の免税店分野では独歩的な存在と見なされ始めた。日本経済新聞は昨年2度にわたり永山を紹介した。韓国を始めとする外国から修学旅行に来た学生がよく立ち寄るショッピングの場所として永山の秋葉原駅前店を紹介した。
早稲田大大学院でも最近、張会長に講義を依頼した。日本に進出した外国企業の中でただの一回も赤字を出したり実績が下落したことの無い企業は5本の指で数えるほど少ないが、その内の一つが永山だという説明と共に大学院生の前でその秘訣を聞かせて欲しいと要請があったのである。
また、彼は ”多くの人が日本は排他的だと言う。しかしながら、農耕文化を持った日本で事業基盤を備えるためには時間が少しかかるというだけでチャンスはいくらでも転がっている” と言った。
張会長に将来の計画を尋ねた。待っていましたとばかりに澱みない答えが続いた。”今の東京本社ビルの横に用地を買って新たに8階建てのビルを建てた後、日本に進出する韓国ベンチャー企業の同志達と’ベンチャーインキュベーター’を作る考えである。
新興国で流通業やリゾート事業を展開するための協議も進行中であるとのこと。
日本で事業をする時の留意点、日本と韓国は外から見ると商慣習や会社の文化が似ているようではあるが、実はかなり違う。
まず、意思決定や命令体系で違いがある。日本は担当者の発言権が相対的に強い。担当者が意見をまとめ、整理して上司に報告や提案する体系が一般的である。いわゆるボトムアップ方式である。
仕事をするやり方でも違いがある。日本は基本的にチームや組織を作って物事を進行させる。計画を立てたり物事を処理する過程をかなり重視する。集団の意見を集め最終意思決定を下すまでには時間がかかるので、初めての取引を成立させるまでは相対的に多くの時間、費用、努力を費やすことになる。
日本では自分の上司よりは顧客や取引先が優先される。接待する時も自社の社長や会長よりも例え職級が低くとも取引先の担当者を上座に座らせる。日本では接待の基本を先方に対する配慮と見る。取引先の社員に自分の会社の社長や会長を紹介する時も名前だけで紹介する。職責(社長 或いは会長)や敬称(さん、様)を付けないのが慣例である。
口頭の約束に対しても注意しなければならない。日本のある教授は冗談半分本気半分で’日本人はできることの90%だけ言い、韓国人はできることの110%を言う’と評する。一旦、大口を叩いておいて後で状況が変わったと弁明するやり方は特に日本では通じない。すでに’信頼できない人間’と烙印を押されているのである。
MK News(news.mk.co.kr)